美しい人の美しい歌
“人々は皆、美しい人の美しい歌をききたいのである”!、と、かのジャズ評論家・寺島靖国はきっぱりと断言した。
ぼくが日頃から口にしている独断的表現に重ね合わせてなぞらえば、“ぼくらは美しい人の美しい文章を読みたいのである”というのと同じだ。
“だからぼくは小池真理子は認めても、林真理子は大嫌いだ! 川上未映子や川上弘美は好きでも、桜庭一樹(なんて男みたいな名=顔の女流作家)なんて読む気にもなれない”
とても傲慢な表現であることは判る。「敵」を一杯つくっちゃう。
もちろんぼくにだって、世間一般に思われている《真理》という概念から甚だしく遠いことも理解できるし、大体「美しい人」とアタマに付けるのは余計だろう。ちっともアフォリズムになっていないし、「けだし名言!」のたぐいでもない(笑)。だけど、バサッと言い切ってしまわないと気持ちが悪いのだ。
人は文、逆も真なり。文と顔は切り離せない。
声の美しいデブの歌手なんて・・・ぼくには絶対に許せない、と。〔だからぼくは「オペラ」が嫌いだ^^〕
寺島さんの批評言語、それはつまり「ぼくの」とほとんど同じなのだが、それが果たして「批評」のレベルに正当な権利を持って立脚しているものかと問えば、はなはだ問題だろう。自問してみて「これが批評だ!」という自覚はぼくにはない。ぼくはいつも「趣味的暴言」ね。
どんどん書いちゃえば、槙原敬之/江原啓之って、世界で最も気持ち悪い男の双璧。大っ嫌い。とりわけ槙原はCMで彼の歌が流れてくるだけでTVを叩き壊したくなる^^。
こうして日々、善良な人々を、一人また一人と敵にまわしているのだ。口にしなきゃいいのに、書かなきゃいいのに、必ず表沙汰にしてしまうワタシです(爆)。
それにしても、黒白つけるという意味で断定するのが大好きな人種で。判っちゃいるけど審判がやめられない。あれがいいだのこれが悪いだの。
その鑑定眼には極めて独善的なものを感じるばかり。寺島のジャズ評、ターナーの映画、文学、音楽評、ワイン・アルコール評。。。
寺島プレゼンツのジャスのアルバムはどれもジャケットからして素敵だ。魅せられる。
彼は年鑑のごとく(“ジャズ・バー”シリーズ)、隠れた名曲・名演奏を一枚にまとめることもしていて、さぁて今年彼は誰を何を発見したのか!? と興味は尽きない。
吉祥寺の駅そばにあるジャズ喫茶『MEG』は、黒なのか白なのか(はっきり白系だな^^)どちらかサイドの偏ったジャズファンが貧乏ゆすりして聴いている店で、この寺島靖国がオーナー(マスター)だ。ジャズ愛好家なら、一度は「参拝」に行くべきところ。ぼくもひところは入り浸っていた。
毎日のように新宿~吉祥寺の中央線のラインに沿って、ジャズ喫茶を転々と「点」で移動しながら、ジャズをBGMに卒論を書いていた時代。いくらでも枚数が書けた。電話帳の厚さの超大作で、きたない字の手書き論文を読むのに苦労してシラケンは白内障に罹り、福永さんは風邪から肺炎をおこしてしまった(肋膜炎の再々発だったのか?)。
ジャズ喫茶が研究の場だった。図書館というより、あのタバコくさい暗がりの中で自ら紫煙に包まれて教授たちを煙に巻く原稿をひたむきに書いていた(チェーンで吸っていたからね。両切りピースを缶ごとバッグに持ち歩いていたのだ)。
入店の時間によっては珈琲でなくビールにオーダーを変えて、(スピーカーの)コーンの振動をあからさまに肌に感じつつ時に帯状発疹を誘発されながら、店内でも夕方でも決して黒眼鏡ははずさず、唇の端に垂れてくる長い髪を時折かきあげ、外が小糠雨であれ台風が来ていても関係なく、薄ぼんやりとした暗がりの中でBの鉛筆をせっせと動かしていた。
(別に長く書いている)横浜・野毛の『ちぐさ』ではさすがにあの伝説の人・マスターが怖くて、一曲もリクエスト出来なかった。フン!と馬鹿にされそうで^^;。
鎌倉・小町通りの『イザ』は長谷に自宅があったMとの待ち合わせの場所だった。
大体いつもは新宿の『DIG』か『DUG』か歌舞伎町の『木馬』で、とりわけ『木馬』が気に入っていた。
アテネ・フランセの授業のない日はほとんどあそこでジャジーな一日を過ごしていたのだった。〔あっ、でも午後の演習が終わると、クラスの女の子たちと以前ここに書いた赤坂の『アンミラ』(アンナミラーズ)に出掛けることも多く、ホームメイド・パイを喰いながら缶ピー吸ってたんだワ。それって、今じゃとっても気持ち悪いことだよね。信じられねぇ・・・〕














































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