材木座まで
鎌倉あたり。
不思議とむかしから縁が深い。
仏文科の学部学生のころ付き合っていた彼女の自宅が逗子にあった。横須賀線で彼女を家まで送るといつも、小津さんの映画に出てくる笠智衆の顔をして、通過してゆく鎌倉、北鎌倉あたりの夜景を眺めていた(何も見えないけどね^^)。
そう、あの頃は逢えばいつも送って来ていたのだ。電車の中は「読書の時間」とわりきって^^。
彼女は学部を最優秀の成績で終え文学部総代として卒業証書を手にした。しかし院には進まず、さっさと結婚してしまったのは意外だった。相手がよく知っている先輩だっただけに余計にショックだった。
彼女が卒論で書いた○○は、Y教授の専門で、ほとんどぼくが書いたようなものだった。12月20日提出厳守の卒論をぼくは二人分書いていたのだった。だって、どうしても書けないって泣きつくんだもんね。途中でY教授に見せたらこんなの高校生の乙女チックな作文にすぎない、書き直し!と言われたらしい。ましてや福永さんなら何を言い出すことやら。鬼のトヨサキならさらにもっと。
ほかが全優でも卒論なしには卒業は無理。口述筆記してもらったと思えば気楽なもんだろうとぼくは笑って答えた、いいよぼくがあらかた書いてやるよと。ぼくらはアンミラでパイを頬張りながら映画や文学談義に華を咲かせていたじゃないか。その乗りで百枚、二百枚書くなんてたやすいことさ。
このキリギリス君には、当然、天罰がくだる。悪夢の11月~12月。地獄の苦しみ。ともかく約束した以上早々に原稿を渡さねばならぬ。自分のはノートから清書したが自分の字が判読できず研究室に持って行ったのが20日当日の午後三時直前だった。ずっと時計を見ていらいらしてたよと後で助手から言われた。スミマセン、滑り込みで。その夜、ちょうど豊崎さんの誕生日だったこともありシラケンから連絡が入って目白のおでん屋にみんなで集まった。辻さんはいらっしゃらなかったな。その時点で、彼女の結婚とぼくの進学は決まった。
院の時代に、立教の映画論の教室で担当教官・蓮實重彦の秘蔵っ子の「あなた」と出逢う。「あなた」がまだ学部学生のときだ。ウルトラ・ハイパー美少女映画戦士。
このあたりの事情については先行して記事がある。http://turner-b.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_6123.html#more
彼女は当時は長谷に住んでいた。川端康成の自宅の近くだった。
ぼくとしてはもう横須賀線には乗りたくなかった。小津の映画ごっこは止めにしたかった。幸いお酒にやたら強い「あなた」はいつも毅然としていてスキを見せず(?)、夜遅くでも鎌倉方面へのぼくの出番はついぞなかった。下りは横浜まで。逢うときはいつも都内、別れるのもアポした場所の最寄り駅が原則だった。
“材木座まで”、そんなタイトルの短編小説の梗概がアタマを流れてゆく。ホントの舞台は「七里ヶ浜」だがイメージがとても若すぎる。俗っぽい。これでは女性誌のグルメ記事になってしまいそうだ。
材木座まで。
小説のほうでは、哀しい恋人たちの、これはほっこりとした日和りばなし。
材木座。ここに、前々回触れたKさんのお兄様がからんでくる。
匿名では文章に勢いがつかない。実名を挙げよう。
服部之聰(しそう)。幕末から明治維新・明治政府成立期ころの近代史を専門とする、偉大な歴史学者であり且つ思想家でもあった人。雑誌に映画評論も連載していた。
いま史学生でも、ほとんど彼を知るものはいない。岩波文庫や新書にまでなっているほどの超一流の近代史学者だというのに。岩波文庫『黒船前後・志士と経済』は名著中の名著だろう。また新書『明治の政治家たち』も読み応えは十二分にある。なのに時代から抹消されたかのごとき扱い。アカデミック世界からのレッド・パージ。
二年前にmixi日記で彼のことに触れたとき、確か北九州に住んでいたロックンローラー君がえらく気にかけてくれて、大学の図書館にもないので古本屋に見つけてもらった旨のカキコがあった。今どうしているのかなぁ?
服部之聰のことを、mixi日記を再読しながら思い出してみよう。
彼がほとんど世に知られていないのは、永らく在野(鎌倉山)にあって徹底して反権力・反権威的だったというのが原因している。赤系の人たちからも敬遠されるほど、反組織的人間だった。
だが彼本人は少しも偉ぶらず、生涯自分を石見の一農民と位置づけていた。
実際の彼は江戸幕府とほぼ同時期に生まれた由緒あるお寺の長子であり、寺を飛び出して三髙~東大と東方横断したまま決して帰郷することがなかった男である。
その孤高の精神の瑕が赤裸々に綴られた『親鸞ノート』を上梓したのは父親の13回忌のときだった、と妹Kさんはある本に記している。
ミクロとマクロという対立項がある。例えばミクロ経済学とか、巨視か微視か、立場の違いで全く正反対の論及がなされる。
之聰先生は、軍国主義に走り出した日本にあって、ミクロ日本史学という立場を学術的に確立しそれを貫き通した人だった。
人を愛していた。マクロに事件史を重視して歴史の流れを語ることを徹底して嫌った。歴史はときの為政者の視点から語られた(あるいは捏造された)悠久たる大河の流れではない。
個々の人々の(大衆の)息づかいがあっての時代であると。
単純化して語ってみる。実に稚拙に要約してみると・・・
例えば江戸幕末の時期、あの開国は何を意味していたのか? そこからなだれ込む明治維新とは何だったのか??
ぼくらはこんな風に歴史を習ったのではないか?
明治維新とは? 徳川幕府が、あの時期に、(西欧の優れた文化に多くを学んだ)
革新的考え方の地方の権力集団・一派(長州・薩摩・土佐藩)によって倒され、西欧化に向けて政治体制の大改革がなされ、その結果、日本は急速に文明に開化し、欧米に追いつき追い越せとばかり、西欧の新しさ・知的技術・思想を模倣・吸収・消化していった革命的出来事をさす、と。
明治○年にはナニがなされ、明治○年にはナニが行われたために日本は飛躍的に発展し「文化・文明」の開化が果たされたのだと。
90数%の官学歴史家はそうだと断言し、ただ之聰先生だけが、静かに、そうではないと言い切った。
テレ朝/タモリの『Mステ』が当世風ならば、むかしはフジ/マエタケの『夜のヒットスタジオ』があった。
舞茸ではない、前田武彦。生の歌番組を時間・進行枠通りに、台本を無視してまで(軽妙にして絶妙なつなぎで)きっちりと収めこむ話術では、マエタケの右に出る司会者はいなかった。タモリは最大限のリスペクトをマエタケに捧げ、マエタケの「分身」「双子」になろうとしているが...マエタケを凌ぐことは多分できまい。
インテリジェンスと毒舌、それがマエタケの天才的話術に向けられた2大称賛のキーワードであり、ぼくがこよなく愛する「青江のママ」や「カルーセル麻紀」も、知的な語りと明るく大胆な毒舌では男たちの誰にも負けてはいなかった。〔? いまぼくはmixi日記をベースにして、記事をはしょりながらこれを書いているが、ここの箇所だけは意味不明^^;〕
あと半年戦争が続いていたら特攻隊員として出撃していたはずの青年・前田武彦が灰土と化した東京に戻って来た昭和20年の暑い夏の日。
何も希望はなかった。極端な二元論で受けてきた教育。
すべては天皇とわが皇国の為に。あるのは敵か見方か、あるいは生か死か。“中・間”的選択は許されなかった。男か女か、大人か子供か。勝ちか負けか。善か悪か。
前田青年は思う。そんなんじゃない、なぜに二つのうちの一方に決めつけるのか、ひとつの答えを出そうとするのか。こんなの学問じゃない。生きてることにはならない。
学問するとは、なにものにも属さないこと。縛られないこと。真にリベラルであること、そこから出発すべきなのだ、と。
いまさら大学に入って学問をやり直す気にもなれなかった。陸軍士官学校幼年兵だった作曲家の故いずみたく氏も同じ気持ちだったし、のちの映画監督の鈴木清順や作家の山口瞳も同様の心情にあった。日々、大船の撮影所に閉じ込められ“知”“情報”に飢えていた女優・左幸子もその一人だった。
彼らは鎌倉に開設されるという(大学レベルの)私塾の話を耳にする。
“もうこれ以上、こんな愚かな戦争は繰り返してはならない。真の民主主義を問いただし日本文化の真髄を学ぶ。その教育の土壌を、お寺の境内でもいいじゃないか、われわれの手でゼロから地道に作り上げよう”という(たぶんそんな類の)スローガンが聞こえてきたのだった。
“真のリベラル・アーツを求めて”“その実践の場は寺小屋で”
哲学者の三枝博音が「学長」として立ち上がる。作家の高見順が和服の襟を正して、やりましょうと頷く。歌人の吉野秀雄が高見に手を差し伸べる。西郷信綱、林達夫、千田是也、宇野重吉、中村光夫、日本近代史の鬼才・服部之聡(しそう)も赤門から飛び出して鎌倉に来た。
みんな手弁当だった。お金じゃない。学問を真摯に追求するために、教授も学生も“知を愛する心(フィロ・愛するソフィア叡智=哲学)”で一つになろうとしていたのだ。
鎌倉・材木座にある光明寺の境内がにわかに活気づく。
昭和21年春5月、「鎌倉アカデミア」はこうして誕生する。
国から大学としての正式認可は得られていなかったが、まさしく“開かれた大学”の原点がそこにあった。
寺小屋大学。自由大学。マエタケさんたちは、そんな素晴らしい学校の卒業生だったのだ。
(・・・・・・)と、mixi日記はまだまだ続く。
服部先生は吉川英治の親友だった。
服部の思想は吉川文学(時代小説)のバックボーンたる歴史観・人間観にそうとう色濃く影響を及ぼしている。見事に文学として昇華されている。
いまはとりあえず、材木座まで散策の足をのばしたところで小休止。
Kさんの文章にこんなものがある。
ヘルパー講座の実習生たちにも語ってきかせる「人生訓」「介護の心の基本」がそこにあるのだ。
こんなにひどい認知症でまるで狂人じゃないですか。一体彼女たちを介護することにどんな意味があるのですか? 彼女たちが生きていることに何の意味があるのですか?いっそ死んでしまったほうがましでは云々とぼくに問う実習生がかなりいる。
ぼくは即答せずに、紅い本を開いて彼女たちに差し出す。休憩時間にちょっと読んでみて。それからまたこの話題について話そうよ、と微笑む。
彼女は78のときかな、まだ元気なうちに、この文章をしたためた。
何度も書いている追悼文のひとつの中で、ぼくはそこの箇所を引用しながら、こんな風に締めている。
“私は一日一日物忘れが進み、目は薄らぎ、足は衰える。毎日の身体がそれを教えていてくれる。やがて幼心に還り、子供達をお父さんお母さんと呼び、周囲の人々をおじさんおばさんと頼るようになるであろう。それでいいのだ。
それが人生の至福であろう。自然である。
でも生きさせて頂いている限りは何らの価値がある事であろう。たとえ生産性の算盤からみればお荷物と思われる老人であっても、山川草木、動物、太陽、空気に至るまで一切が生きて働いて、私を生かさせて下さるのだから。”
「一休さんの話」より抜粋 ─関根薫『夕茜』─
紅色の美しくシンプルな装丁のこの随筆集には彼女が還ることを毎日のように夢見ていた石見の郷の正蓮寺の見事な山門と石段の写真がある。
正蓮寺は関ヶ原の戦いのすぐ後に開かれた由緒正しい深い歴史のある名刹であり、彼女はそこの娘・長女であり、10歳上には服部之聰が長兄としていた。之聰は寺を捨て親鸞を捨てて、三高・東大と進み、マルクス主義の近代史学者として偉大な仕事をなす。
之聰が27歳のときに書いた『明治維新史』は、歴史学の領域を超えて日本思想史の名著として名高い。また洒脱なエッセイの書き手としても我々を愉しませてくれる。その妹、薫の随筆もまた、美しい日本の女心を香しく漂わせている。
明治の女(であり母)の、強さ・潔癖さ・優しさに満ちた一冊、それが『夕茜(ゆうあかね)』である。”
彼女については「あなた」からの美しいコメントが遺されている。それに触れたブログ記事はここをご参照ください。
http://turner-b.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_8d36.html#more
さていよいよ、次回は、おまっとさんでした、《PanさんのCDコレクション》の話。
写真主体で楽しく展開してみたい。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 「追憶」を追想すること(2009.07.07)
- 秀男ちゃんの想い出(2009.07.03)
- 立ちすくむ夏 4 (最終回)(2009.06.30)
- 立ちすくむ夏 3(2009.06.29)
- 立ちすくむ夏 2(2009.06.26)


コメント
ターナー先生
先生・・・私はどんな態度をとっていればいいのか。
ひみこ姐さんのご反応を心待ちにしておりましたが。。。
Panさんは例の如くでお言葉はなく、溌剌元気ママ(らしい)M&Mさんも姿を現さず、とても困っています。
あの夜の強烈なメールには、え、どうして、何があったの???と、いまだに事情がさっぱりのみこめません。ハリケーンのごとき激烈な言葉の連打で、ここでの思い出のすべてが一瞬にして吹き飛んでしまいました。
ただ呆然と、携帯を握ったままの私でした。
「^^」とか「笑」とか「(^ω^)」とか、末尾に付けて、遊んだ文章を書いていられるのでしょうか?
ひみこ姐さんはその後の事情をご存知なの?どんな話の推移になっているの?
とても暗い週末を迎えています。先生はお変わりなくお元気なのでしょうか???
このモヤモヤを払拭してくれる「お声」を、ひたすら待っております。
投稿: エリカ | 2008年11月28日 (金) 21時55分
エリカさん
申し訳ございませんが、
ここでの話題の対象外とさせてください。
いつも通りで結構ですよ^^。
ぼくも、いま、こうして書いているのだから。イェイッ!
投稿: ターナー | 2008年11月29日 (土) 06時00分