幻の女 2
夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに彼の気分は苦かった。〔って、ターナー訳〕
カッコいいでしょ?
何度でも語っちゃうよ。
日本人のミステリー作家に逸材が多いとは思う。若手にも力量のある作家たちがいることは認める。でもどうだろう、文庫本でもよくもまぁこんなに厚いのをという作品を何冊も書いている作家がいるが、じゃぁ書き出しの一行を覚えてる?と問えば、答えられる人はほとんどいないはずだ。
書き出しでなくても印象深かったくだりでも、決め台詞でもいいが、文学の香り豊かな箇所などひとつも記憶にない。そうじゃありませんか?読んだらすぐに忘れてしまう、そんな日本語の文章だ。肝心の「事件」自体の内容すら忘れてしまっている自分に驚かされるのではあるまいか?
作家個人を攻撃しているのでは決してない。貶めるつもりはない。
そんな寒々しい風土が日本のミステリーには何故か根強くあるということなのだ。
変な話、とても文学作品とは思えない平べったい駄文のミステリー、「金田一少年の事件簿」的犯罪記録の記述スタイルだけで読ませているミステリーが多すぎる。もちろん、「謎解き」だって大したもんじゃない。あっと驚くようなものじゃ、少しもないのである。
視点・書き方(文体)で人をだまくらかす作品。その場では面白くても、明日になれば筋も忘れてしまうミステリー。そんなものが果たして文学なのだろうか? ここのところをはっきりと「問題提起」しておきたい。本当にこれでいいのか?と。
日本人のミステリー作家に逸材が多いとは思う。若手にも力量のある作家たちがいることは認める。でもどうだろう、文庫本でもよくもまぁこんなに厚いのをという作品を何冊も書いている作家がいるが、じゃぁ書き出しの一行を覚えてる?と問えば、答えられる人はほとんどいないはずだ。
書き出しでなくても印象深かったくだりでも、決め台詞でもいいが、文学の香り豊かな箇所などひとつも記憶にない。そうじゃありませんか?読んだらすぐに忘れてしまう、そんな日本語の文章だ。肝心の「事件」自体の内容すら忘れてしまっている自分に驚かされるのではあるまいか?
作家個人を攻撃しているのでは決してない。貶めるつもりはない。
そんな寒々しい風土が日本のミステリーには何故か根強くあるということなのだ。
変な話、とても文学作品とは思えない平べったい駄文のミステリー、「金田一少年の事件簿」的犯罪記録の記述スタイルだけで読ませているミステリーが多すぎる。もちろん、「謎解き」だって大したもんじゃない。あっと驚くようなものじゃ、少しもないのである。
視点・書き方(文体)で人をだまくらかす作品。その場では面白くても、明日になれば筋も忘れてしまうミステリー。そんなものが果たして文学なのだろうか? ここのところをはっきりと「問題提起」しておきたい。本当にこれでいいのか?と。
さて、
アイリッシュの『幻の女』を読んでみよう。
いきなり夜の街を歩く男が出てくる。彼は妻と喧嘩をして、家を飛び出して来たのだった。
彼はうろついていた街なかで、奇妙な形の帽子をかぶった女と偶然に出逢う。この偶然がいいよね。物語は「偶然」なしには始まらないのだから。二人は名前も素性も明かさずに、酒を飲んだくれる。これもいいよね。「私、飲めないのよ」じゃアヴァンチュールは始まらない^^。 一緒に酒を飲んで食事をして、カジノ座でショウを見て、そして何もせずに別れる。ここは読者がひっかかるところだ。なんだよそれって。面白くないぞって。
違うの、アイリッシュ文学ではこれでいいの!ホテルに行っちゃったりするのは「文学」じゃないのだ。
『Always・続』の、鈴木オートの社長から“文学”と呼ばれる茶川クンだって、小雪とはすぐ寝ないでしょ? 「文学」するって純真な心の維持なのだ。誠実な気持ちの持続にほかならないのだ。
違うの、アイリッシュ文学ではこれでいいの!ホテルに行っちゃったりするのは「文学」じゃないのだ。
『Always・続』の、鈴木オートの社長から“文学”と呼ばれる茶川クンだって、小雪とはすぐ寝ないでしょ? 「文学」するって純真な心の維持なのだ。誠実な気持ちの持続にほかならないのだ。
「事件」は、ホテルでなく、ホテルに行かなかったその後に起こる。
帰宅した彼は、妻が自分のネクタイで絞殺されているのを発見する!
こうこなくっちゃ^^。
ところが大変。
帰宅した彼は、妻が自分のネクタイで絞殺されているのを発見する!
こうこなくっちゃ^^。
ところが大変。
裁判では、なんと彼に死刑が宣告される。
突然の極刑だけど、まぁいいじゃないか。いまの日本でもアメリカでもない。ミステリーの世界なんだから甘んじてこれを受けよう。〔でも読んでて「死刑」の判決にはなんら違和感はない。〕
彼は刑務所に入れられ、死刑執行を待つ身となってしまう。“違う、俺はやっていない! あの女と一緒だったのだ!”と無実を叫ぶ哀れな男。
彼の無実を証明できるのは、つまりアリバイの証言者は、奇妙な帽子をかぶったあの女しかいない。
突然の極刑だけど、まぁいいじゃないか。いまの日本でもアメリカでもない。ミステリーの世界なんだから甘んじてこれを受けよう。〔でも読んでて「死刑」の判決にはなんら違和感はない。〕
彼は刑務所に入れられ、死刑執行を待つ身となってしまう。“違う、俺はやっていない! あの女と一緒だったのだ!”と無実を叫ぶ哀れな男。
彼の無実を証明できるのは、つまりアリバイの証言者は、奇妙な帽子をかぶったあの女しかいない。
それを訴え、必死になって捜してもらうのだが、女はどうしても見つからない。
時間がない。刻一刻と死刑執行のときは迫る。これも“リアル”な屁理屈はナシね。オウムのAがいまだに獄中に生きているなどと怒ってみても仕方ない。これは「文学」なのだから。
時間がない。刻一刻と死刑執行のときは迫る。これも“リアル”な屁理屈はナシね。オウムのAがいまだに獄中に生きているなどと怒ってみても仕方ない。これは「文学」なのだから。
「死刑執行前150日 午後6時」から始まり、「執行前3日」、「死刑執行当日」、「死刑執行時」と緊迫していく時。このスリリングな秒刻み。カウント・ダウン。
さぁて、彼の無実は明らかになるのか? 一体全体、あの帽子の女はどこに消えてしまったのか?? あれほど「目立つために」(?)奇妙なカボチャのような帽子をかぶっていたはずの《幻の女》は、見つかるのだろうか???
このあとに、最後の最後に、衝撃の結末が待っている。
さぁて、彼の無実は明らかになるのか? 一体全体、あの帽子の女はどこに消えてしまったのか?? あれほど「目立つために」(?)奇妙なカボチャのような帽子をかぶっていたはずの《幻の女》は、見つかるのだろうか???
このあとに、最後の最後に、衝撃の結末が待っている。
そうなのだ。ぼくが言うミステリーの醍醐味、文学の香りとは、こうした小説に存在するものだ。
いいですか、現実的「リアル」は大して重要でない。犯罪捜査の過程、裁判上の審議プロセスを「リアル」になぞって描く必要などさらさらないのだ。
似非リアリズム志向が強まったのは松本清張以降のことか。
時刻表の「空白の時差」トリックなんかがもてはやされて、瑣末な問題、時差のアリバイにこだわる作家たちが急増した。西村京太郎は「列車」の特性を導入し、やがて「ご当地」要素にこだわる。斉藤栄はなんとか「文学」を取り込もうとやっきになっていた。それと「日本」的要素。ディスカヴァー・ジャパン。そうして、いかにも日本人的発想の、旅と時刻表を神経質に見比べたミステリーが横行する時代が永らく続くことになる。西村京太郎の一人舞台が始まる。そのツレアイ(世間的には逆の立場で語られる)山村美紗なんて、なんとなくの「観光ミステリー」の流行に乗じただけ。物語るべき日本語が破綻してるからね^^。もちろん、どの作品をとっても「殺人」は大したトリックで行われていない。つまらない小細工。とってつけたようなアリバイ工作。そんなことでもしなければ人ひとり殺せないのか?という嘆かわしい「殺人事件」が日本のミステリーの主流となってしまった。
戦後作家では『虚無への供物』の中井英夫、そして現代での笠井潔、島田荘司、折原一、この四人くらいしか、ぼくはミステリー作家として認められない。厳しい言葉だが、あとは「文学」から遠く離れている。〔友人である鈴木光司は・・・彼っていまだにホントにミステリー作家なのか? 『リング』は素晴らしく良く書けた作品だと思うけどね^^〕
いいですか、現実的「リアル」は大して重要でない。犯罪捜査の過程、裁判上の審議プロセスを「リアル」になぞって描く必要などさらさらないのだ。
似非リアリズム志向が強まったのは松本清張以降のことか。
時刻表の「空白の時差」トリックなんかがもてはやされて、瑣末な問題、時差のアリバイにこだわる作家たちが急増した。西村京太郎は「列車」の特性を導入し、やがて「ご当地」要素にこだわる。斉藤栄はなんとか「文学」を取り込もうとやっきになっていた。それと「日本」的要素。ディスカヴァー・ジャパン。そうして、いかにも日本人的発想の、旅と時刻表を神経質に見比べたミステリーが横行する時代が永らく続くことになる。西村京太郎の一人舞台が始まる。そのツレアイ(世間的には逆の立場で語られる)山村美紗なんて、なんとなくの「観光ミステリー」の流行に乗じただけ。物語るべき日本語が破綻してるからね^^。もちろん、どの作品をとっても「殺人」は大したトリックで行われていない。つまらない小細工。とってつけたようなアリバイ工作。そんなことでもしなければ人ひとり殺せないのか?という嘆かわしい「殺人事件」が日本のミステリーの主流となってしまった。
戦後作家では『虚無への供物』の中井英夫、そして現代での笠井潔、島田荘司、折原一、この四人くらいしか、ぼくはミステリー作家として認められない。厳しい言葉だが、あとは「文学」から遠く離れている。〔友人である鈴木光司は・・・彼っていまだにホントにミステリー作家なのか? 『リング』は素晴らしく良く書けた作品だと思うけどね^^〕
高木彬光が創り出した名探偵・神津恭介については、前にこのブログで、詳しく書いている。ぼくとしてはこの神津先生以降の「探偵」諸氏が、とても「名探偵」とは思えない。内田康夫が描くところの「名探偵・浅見光彦」だって、悲しい哉、兄貴の権威を暗にふりかざして捜査・推理するだけのチンピラ“迷”探偵にしか思えないのだ。「名探偵」の魅力はない。だから、現代における「名探偵」の不在・非在を嘆くわけだ。いたしかたないことだとも、思う。「名探偵」の超論理的直観が通用する時代ではなくなっているから。
カッコつけるようでごめんなさい、ぼくはミステリーが大・大・大好きでも、現代作家の作品はほとんどダメだ。
面白くもなんともない。はっきり言って、つまんない。だらだらと長いだけで、「文学」的香気はほとんどない。か、あっても読み続けるほどに失せていくだけ。あるいは専門的世界で独りよがりに“ジコマン”、ひとり悦に入って書いているとしか思えない作品ばかりだ。
乱歩は、終戦後まだ間もないころ、戦時中は入手できなかった『幻の女』の原書をようやく手に入れると夢中になって読み耽ったという。そして表紙裏にこう記した。“新しき探偵小説現れたり。世界十傑に値す。ただちに訳すべし。不可解性、サスペンス、意外性、申し分なし”。
『幻の女』、ぼくの「日乗」の忠実なる読者なら、これはすでに数年前に半強制的に読まされているテクストだろう。
ターナー大好き=アイリッシュ=『幻の女』。
アイリッシュが原作の映画では、ヒッチコック『裏窓』=同名作品、トリュフォー『暗くなるまでこの恋を』=原作『暗闇へのワルツ』(=リメイク映画『ポワゾン』)、トリュフォー『黒衣の花嫁』=同名作品。
ターナー大好き=アイリッシュ=『幻の女』。
アイリッシュが原作の映画では、ヒッチコック『裏窓』=同名作品、トリュフォー『暗くなるまでこの恋を』=原作『暗闇へのワルツ』(=リメイク映画『ポワゾン』)、トリュフォー『黒衣の花嫁』=同名作品。
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